アルトリアブログ

いろいろ書いています

ある乗合タクシーの思い出

(読み終わるまでの時間:10分程度)

(2017年8月の出来事です)

 

8月25日の夜、ウズベキスタンの首都、タシケントの宿で寝転びながら、明日の行程のことを考える私の精神はついに限界に達していた。

 

オランダ・アムステルダムを出発して1か月。ユーラシア大陸を(ちょくちょく飛行機を使いながら)横断するという中途半端な野望の下に始まった旅は既に7割の行程を終えていた。

 

その間の移動は毎日が困難の連続だった。英語が通じない街で次の街への交通手段を探し回る日々、タクシーに乗るたびに行われる運転手との価格交渉、高速バスで深夜の田舎町に投げ出された恐怖、なんとか確保したその日の宿で、LonelyPlanet(バックパッカー向けの英語の旅行本)や見知らぬ先駆者が書き記したブログと睨めっこしながら、明日は無事に次の目的地に辿り着けるかどうかに思いを巡らせる日々。

このような体験の積み重ねが、私の精神をゴリゴリとすり減らしていた。

 

しかし、ここからの行程が、私の中では更なる懸案だった。

 

明日は、予定では、1日かけてキルギスとのボーダーに近いアンディジャンという街へ移動することになっていた。この間は(今まで散々苦しめられていた)乗合タクシー以外に交通手段がない上、先駆者のブログも見当たらず、LonelyPlanetのわずかな記載を手掛かりにまずタクシーの出発場所から探さないといけないという始末だった。

また、乗合タクシーというのは人が揃わなければ出発しないので、出発が遅くなれば、また、深夜の田舎町に放り出されることになり、命の危険すらある。しかも、これまでとは異なり、ウズベクではsimカードを入手することができておらず、これらの苦難に対し、命綱にも等しい通信回線なしの状態で挑まなければならなかった。

この日の行程

 

さらに、アンディジャンに着いた後も、キルギスを経由して中国に辿り着かねばならないが、その行程も、相当な苦労が予想された。

 

このような風なことを天井を眺めながら鬱々と考えていると、今まで考えたこともなかった、「安全な日本に帰りたい」という思いが急速に頭の中を支配し始めた。

しばらくグルグルと考えたのち、長旅で弱気になっていた私は、ついに帰国することを決意し、Skyscannerで関西空港行きのチケットを探し始めた。検索結果には、中東かモスクワ経由の10万円越えチケットが並んでいる。生来のケチくささと優柔不断さ、そして何よりも、ここまで来ながら目標のユーラシア横断を達成できなくなるという悲しさが、先ほどの決心に少しだけブレーキをかけた。

 

明日、とりあえずアンディジャン行きの乗合タクシーを探すだけ探してみよう。

スムーズに見つけられなかったり、乗客が集まるのが遅くなるようであれば、諦めて日本に帰ろう。

 

そういう半端な方針だけを決めて、この日は眠りについた。

 

翌朝、宿を出て、フェルガナ方面の乗合タクシーが出るとされる場所に向かう。LonelyPlanetには「クイルクバザール」の「近く」としか書かれていない。乗合タクシーの発車場所は、看板もない未舗装の駐車場みたいなところであることが多いため、クイクルバザールの付近のそれらしい場を歩き回るが、乗合タクシーがいる気配がない。

 

やっぱり帰るか。

 

そう思いかけていたが、諦めきれず、クイクルバザールの道路を挟んだ向かいをふと探してみる。すると、あろうことか、どうも乗合タクシーの出発場所らしい気配を感じる。たむろする男性らにアンディジャンと尋ねて回ると、ついに、ある老人から反応があった。

さっそくiPhoneの電卓を叩いて価格を確認する。ロンプラには相場が40000スムと記載されているため、その額を提示するが、老人は厳しい顔でiPhoneを受け取り、80000スムと打ち直す。しばらく交渉してみたが、下げる気配を一切見せない。残念ながら、正確な相場を把握しておらず、この乗合タクシー以外に選択肢も持ち合わせていないため、やむなくこの額で妥協する。

そうすると、老人は、乗って待っておけといった素振りでタクシーのドアを開けた。私が助手席に乗り込むと、老人はどこかへ行ってしまった。

そのまま私はタクシーの中で待っているわけであるが、一向に老人も、他の乗客も来る気配がない。言語が通じない中、今はどういう状態なのか、いつ出発できるのか、きちんと日の出るうちに辿り着けるのか、そもそもこれは本当にアンディシャン行きなのか、どんどん不安が募っていく。

 

気晴らしに車外へ出たり、辺りをブラブラしているうちにどんどん太陽が高くなり、ついに12時近くになった。もうダメだ、帰ろうと思いつつ、なかなか踏み出せないでいた。

 

そうして待っていたところ、ようやくして2人目の乗客がやってきた。それは、60代ぐらいの、人のよさそうな顔の丸い男性だった。ニコニコしながら私に挨拶をする(何を言ってるのかはわからないが。)。あまりにニコニコしているので、逆に胡散臭く感じ、警戒する。

さらにその直後、40代ぐらいの双子の女性と、20代ぐらいのガタイのデカい男性がやってくる。どうもこのガタイのいい男性が運転手のようだ。人数が揃い、ついに乗合タクシーが出発した。後から来た3人の乗客は後部座席に詰め込まれている。私は他の乗客より高い運賃を払っているであろうから、特に罪悪感は生まれない。

既に12時を過ぎており、日の明るいうちに辿り着けるだろうかとひたすら心配している私をよそに、タクシーは10分程度走行したところで幹線道路沿いの飲食店に入っていく。どうやら昼食の時間のようだ。5人でテーブルを囲んで食事を取る。このような牧歌的なところはある意味で羨ましい。ちなみにこの時、私が疲れからか食事中に突然鼻血を出すという出来事があり、他の4人を心配させた。得体の知れない東洋人の観光客が鼻血を出すというエピソードは強烈な印象を残したに違いない。

昼食

 

昼食を終えて再び出発する。昼食を食べて機嫌がよくなったのか、運転手がしきりに僕に何かを話しかけてくるが、当然理解できないので適当に頷いておく。後部座席の方も何やら賑やかである。もちろん何を話しているのかはわからないが。

タクシーは、狂ったようにクラクションを鳴らしながら物凄いスピードで幹線道路を疾走していく。命の危険を感じつつも、このスピードなら日の出るうちに到着できそうだなと思っていたのも束の間、フェルガナ盆地に入る峠の辺りで、工事渋滞に捕まる。なんと、これが驚くほど進まない。運転手がとんでもなくイライラしている。私も再び不安が募っていく。

 

結局、峠越えにかなりの時間を要し、フェルガナ盆地に入った頃には日がだいぶん傾いていた。

夕焼けに赤く照らされたタクシーは、見渡す限り何もないフェルガナ盆地の真っ直ぐな道を走っていく。乗客も疲れており、車内は静まり返っている。

運転手も私の行く先が気になり始めたのか、どこに行くのかというようなことを聞いてくる。目星をつけていたホテルの場所をマップで示すが、芳しい反応がない。運転手はどこかに電話をかけ始め、私に電話を渡す。通話口から、訛りの強い英語(らしき言語)が聞こえてくる。頑張って説明するが、要領を得ない。結局、この電話を介した説明は成功したのかどうかわからないまま終了する。

 

タクシーが両脇を畑に囲まれた道を走っていたところ、運転手が、突然車を停めて降りていったと思ったら、すぐ戻ってきて、私にニヤけながら白いものを渡す。よく見るとどうも畑から引きちぎってきた綿花のようだ。綿花栽培のための灌漑でアラル海が干上がったなどの教科書的知識はあるが、実際に見るのは初めてだ。観光客である僕への彼なりのサービスか、あるいは、確たる産業がないウズベキスタンでは綿花は自慢の品なのか。



アンディジャンに近くなる頃にはすっかり日が暮れていた。そのまま市内にいくかと思いきや、まず、郊外にある双子の姉妹の家の前で彼女たちを下ろし、彼女たちは私に手を振りながら去っていく。どうやら、それぞれを家まで送るというサービスらしい。私はどこで下ろされるのだろうか。

 

続いて、タクシーは竹林に囲まれた道を進んでいく。残りの乗客であるニコニコおじさんの家に向かっているのだろうか、先行きの見えない不安が僕を襲う。

タクシーがニコニコおじさんの家の前らしき場所で止まる。すると、ニコニコおじさんが僕と運転手に車から降りるように言う。全く事態が理解できず、僕は困惑する。

車を降りておじさんについて行くと、現れた若い夫婦が英語で話しかけてくる。聞けば、自分たちは英語ができるのでクウェートのホテルに出稼ぎに行っているが、偶然実家に帰ってきていたところである、ニコニコおじさんは私の叔父だが、ホスピタリティに溢れており、私たちを家でもてなしたいと言っているという。なんと、ニコニコおじさんは、本当にいいおじさんだった。

 

天の助けとばかり、英語ができる夫婦に状況を説明する、英語ができる夫婦は、あなたが行くホテルを運転手に教えておくと言ってくれた。素晴らしい、なんとか今日も生き残れそうだ。ニコニコおじさんの親切心と自分の幸運に感謝する。

英語ができる夫婦は、いくら払う約束なのかと聞いてくる。80000スムだと言うと、それは相場は30000スムだ、それ以上払わなくていい、とこれまた親切に教えてくれた。

 

ニコニコおじさんの家族はちょうど庭でパーティをやっていたようで、たくさんのウズベク料理をもらい、空腹までもが満たされる(深夜に田舎町に到着すると食事の調達にも苦労するので、この点も地味に重要である)。

東洋人が珍しいのか、子供達が話しかけてくる。知らない中年男性までもがWhatAppの連絡先を求めてくる。

最後に記念撮影をし、その親切な家族たちに見送られながら、運転手と共にその場を後にする。

親切な夫婦と記念撮影(なんとなく自分の顔だけ隠すのに抵抗があったため、全員の顔を隠した)

運転手ともパシャリ

15人ぐらいの集合写真もあるが、顔を隠すのが大変なので割愛。

 

しばらく走るとようやくアンディジャンの市内に到達する。運転手が、私のスマホとにらみ合いながら真っ暗な街を進んでいく。そして、タシケントの街を出発すること9時間、ついにホテルの前に到着した。旧ソ連を思わせる無骨な外観であるが、電気はついており、ちゃんと営業しているようだ。私は感動の余り車を降りて足を速める。運転手も車を停めてついてくる。

ホテルには他の客の気配がなかったが、フロントは英語が通じたため、スムーズにチェックインをすることができた。運転手が横でカウンターに手をつきながら覗き込んでくる。

チェックインを終えて部屋に向かおうとすると、運転手は、荷物役だとばかりに私のバックパックを丁重に持ってついてきた。

部屋のある階に行き、エレベーターホールにあった長椅子に2人で座る。運転手が「さあ」と言わんばかりの顔をする。真のコミュニケーションに言語は不要である。私はウエストポーチを開け、しれっと10000スムの束を3つ渡す。私が値段交渉をしたのは老人である。この運転手は約束した値段を知らないかもしれない。

運転手はニコニコしながら、「違うだろ」というような顔をする。相場を知った私は値段交渉を再び試みようとiphoneの電卓機能を開いたところ、あろうことか、朝に老人が打ち込んだ「80000」という数字が残ったままだった。運転手は満面の笑みで、私は引きつった笑顔で顔を見合わせる。

観念した僕が10000スムの束を残り5つ渡すと、運転手は入念に確認した後、感動したような表情で抱擁してくる。

相場の2倍以上の運賃を得たのがよほど嬉しかったのか、謎の東洋人との奇妙な縁が嬉しかったのか、長い抱擁だった。

運転手は、自分の携帯電話の画面を見せ、「ヤーポン」「メッセジ」と言いながら電話番号を見せてくる。解するに、日本に無事帰った時にメッセージをくれと言っているようだ。そのとき、その運転手の名前がアルシャーとわかった。アルシャーはメッセージを送るように何度も念押していた。彼と別れ、私の長い1日が終わった。

 

その2日後、私は無事中国に辿り着き、日本に帰国した。帰国後、返事があるとは思えないが、あれだけ念押しされた手前、一応、アルシャーに無事到着した旨のSMSを送った。

 

 

驚くことに、あの旅からもう6年もの歳月がたった。毎日決まった時間に職場に向かう変わり映えのない無機質な日々を送り、気づけば30代を目前にする中、部屋に飾ってあるひとかたまりの綿花だけが、時折、この奇妙な1日のことを私に思い起こさせる。今は梅田を歩く人の群れの中の1人として押し潰されそうになっていても、あの日あの時あの場所で、確かに私はこの物語の登場人物だったのである。

ふと思い立ち、メッセージアプリを遡ってみた。彼からの返事は、まだなかった。